(2015.08.14) |
平和への道(下)
~ 二ヶ国間の人間 編 ~
国際交流員 森下アンダーソン実砂雄
現在、在留外国人数はおよそ212万人(※1)とされています。対して、日本の人口が 1億2531万9千人(※2)なので、在留外国人が非常に少ないことが明らかです。日本人の皆様が誰よりもよくご存じかと思いますが、日本は主要国首脳会議(G7)のメンバー国ならではの経済・産業を持つ一方、国内で様々な問題を抱えています。少子高齢化をはじめ、災害や巨大地震への備え、東日本大震災からの復興、原発ゼロ、集団自衛権、デフレ脱却、消費税増税、男女共同参画社会、学校でのいじめ、農業の衰退などが日本人の方に限らず、この国で生活する全ての人にとって難易度の高い問題となっています。
異国で生活するに当たり、ことばの壁や文化の違いによるストレス、またはその時代の背景と社会の現状による人間関係のトラブル等が発生することもあるかもしれません。戦時中に活躍していた歌手・女優の山口淑子(1920年~2014年)と女性アナウンサーのアイバ・戸栗・郁子(1916年~2006年)を参考に、生まれ育った環境と全く異なる国で生活することについて考えてみましょう。
山口淑子は、日中戦争中、李香蘭の名で映画「支那の夜」でデビューし、後に代表曲の「夜来香」を大ヒットさせました。日本でも、中国でも、中国人スターと見られていたため、敗戦後、大陸で漢奸(中国反逆者)の容疑で裁かれました。日本国籍を証明できたことから、銃殺刑をまぬがれ、かろうじて帰国できました。一方、アイバ・戸栗・郁子は、アメリカ生まれの日系2世であり、日本語も日本文化になじみがないまま在日の親戚を見舞うために訪日したところ、太平洋戦争が勃発しました。帰ることができず、戦時中、英語のアナウンサーとして活躍し、東京ローズの愛称で有名となりました。アメリカに帰国後、国家反逆罪の判決で懲役が命じられました。二人の共通点は?当時の日本のナシヨナリズムのプロパガンダと関係があると考えられます。
昔のことを思い出させる看板(画像は看板の一部)は岐阜市の街角で発見
戦時中、多くの日本人移民が既にブラジルで暮らしていましたが、日本人移民は自由のない異邦人となりました。農民としての重労働や貧困生活に加えて、ブラジル政府の施策で日本語の使用禁止(邦字紙や映画上映等)が強いられました。1942年に日本・ブラジルの外交関係が途絶えてしまい、両国に係っていた日本人移民の心の中で排民であることを初めて認識したのではないかと思います。終戦後、山口淑子やアイバ・戸栗・郁子のような事例はブラジルで例がないと思いますが、ブラジルの日系社会で恐ろしい事件が相次ぎました。それは、「勝ち組」と「負け組」の対立でした。正確な情報が入手できない時代に、敗戦を認めない過激的な組織・臣道連盟によって日本の降伏を信じていた同胞が次々と暗殺されました。ブラジル本国の警察を介して容疑者らが罰せられましたが、こうした陰鬱な時期が忘れられつつあります。ようやく、1952年のサンフランシスコ条約の発効とともに、日系社会と両国の平和な外交関係が復活されたと考えられます。
日系2世であったアイバ・戸栗・郁子は「アメリカ人化」をしていたならば、日本人の山口淑子も「中国人化」をしていたのではないかと思います。同化というプロセスは、当時の在ブラジル日本人にもある程度「ブラジル人化」が余儀なくされました。今日は、日本語や日本文化を継承する日系ブラジル人が見られますが、ほとんどの日系人がブラジルのライフスタイルに適応しています。しかし、日本にルーツを持つことから、ブラジルで日本人であることを意識する日系人が少なくありません。アイデンティティーや国籍、そして混血化などがデリケートなトピックスですが、日本民族とブラジル民族とまた異なる民族の存在を知っておかねばなりません。それは日系ブラジル人の民族です。
改めて現在の日本社会について考えてみましょう。好景気と不景気を繰り返して経験している日本の国民はたくさんの難題と向き合っています。武器による戦争は全くありませんが、難題との戦いはまるで戦争のようです。今後、国籍や民族を問わず、この国ですべての人が真の平和に満ち溢れた社会で生活できることが、ブラジルそして日本と密接して生きてきた私の願いです。
(※1)法務省【在留外国人統計(旧登録外国人統計)統計表】 http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?lid=000001133760
(※2)総務省【人口推計(平成27年(2015年)2月確定値,平成27年7月概算値)】 http://www.stat.go.jp/data/jinsui/new.htm
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